西那須野CCの歴史

今回は、栃木県の那須塩原市にある「西那須野カントリー倶楽部」(以下、西那須野CC)にフォーカスして
お届け致します。

これまでは、都心から近郊の「法人接待用ゴルフ場」をフォーカスさせて頂きました。対しこちらの
西那須野CCは、都心近郊の「リゾートコース」且つ「トーナメントコース」としてクローズUPさせて
頂きます。

こちらのゴルフ場は、都心から約200km、車で約2時間です。新幹線を利用すると、最寄り駅は那須塩原駅で、東京駅から約90分の距離です。那須塩原にはキャンプ場や、アウトレット等、ゴルフ以外にも多くの
観光スポットがあります。

そして、西那須野CCは、2021年より男子プロの大会「JAPAN PLAYERS CHAMPIONSHIP byサトウ食品」
の舞台です。この大会が他のトーナメントと大きく異なるのは、選手たちが主導で協賛企業を探し、大会を
作り上げているという点です。なぜ男子プロは、西那須野CCを舞台として選んだのでしょうか、そして
選ばれたゴルフ場には、どのような歴史や秘密が隠されているのでしょうか。


<西那須野CC クラブハウス>

<2023年度 トーナメント>

西那須野CCの歴史

西那須野CCの経営母体は、東証スタンダード上場「ホウライ株式会社」(資本金43億円)です。
ホウライ株式会社は、保険事業本部、不動産事業本部、千本松牧場事業本部、ゴルフ事業本部の4事業部で
構成されています。西那須野CCは、那須塩原市の千本松地区にあり、千本松地区内に隣接する千本松牧場
は、東京の「千代田区」とほぼ同じ面積(東京ドーム約178個分)という広大な土地を有しています。

千本松牧場の歴史は、明治時代迄さかのぼります。明治政府は、富国増強・産業振興をスローガンに揚げ、
その一環で「農地開拓」「農地振興」を推奨しておりました。その流れで、現在の千本松牧場のあるエリアが
注目され、開墾の為に「那須開墾社」が設立されました。まずは、開拓に必要不可欠な「水」を確保する
ため、水をひく疎水事業が行われ、明治18年に「那須疎水」が開通しました。 この疎水事業は、
明治初期の殖産興業を背景にした国家プロジェクトであり、「那須疎水」は日本三大疎水(福島:安積疎水、
京都:琵琶湖疎水)の一つに数えられます。

開拓を続けていた「那須開墾社」ですが、開拓後の維持、運営に苦労していた中、内閣総理大臣を2度、
大蔵大臣を7度歴任した明治の元勲、松方正義公がこの土地を購入し、農場をスタートさせました。


<松方 正義公>

<アカマツ>

松方正義公は、この地域に天然のアカマツが群生していたことから、この地を「千本松」と命名し、それが
現在の地名にもなっています。この土地は、昭和3年に松方厳氏(松方正義公の長男、十五銀行の元頭取)
により十五銀行に提供され、それを現在のホウライ株式会社にあたる会社(蓬莱殖産株式会社)が買取り
ました。そこで、農場経営を引き継ぐことになったのが、現在の千本松牧場の始まりです。(その後、十五
銀行は帝国銀行に吸収合併され、帝国銀行の一部は三井銀行に分割されました。三井銀行は、数次の合併を
経て現在は三井住友銀行となっています。)

時は流れ、ホウライ株式会社は多角的経営を展開していきました。その一環としてスタートしたのが
「ゴルフ事業」です。まずは平成2年に「ホウライカントリー倶楽部」(以下ホウライCC)が営業を
スタートし、平成5年に「西那須野CC」がオープンしました。尚、ホウライ株式会社は、平成3年に
株式店頭公開を果たし、平成7年にはジャスダック証券取引所に上場しました。


<廣野GC>

<ロバート・ボン・ヘギー氏>

この両コースに共通するのは、欧米風の超一流コースを見本とした点です。国内だと川奈GC、廣野GCに
匹敵するコースを造る事が目標でした。川奈GC、廣野GCは英国人C.H.アリソン設計のゴルフ場です。
そこでアリソン亡き後の欧米での有名なコース設計家として、ロバート・ボン・ヘギー氏に白羽の矢が
立ちました (他に、河口湖CC、有馬ロイヤルGC設計)。ヘギー氏は、「光と影の魔術師」「バンカーと
池の魔術師」とも言われ、那須連山をバックに、見事なコースを完成させました。

ホウライCC、西那須野CCの大きな特徴の一つとして、国内では稀有なオールベント芝(西洋芝)という点
が挙げられます。ベント芝は寒さに強いが暑さに弱いので、関東圏ではグリーンのみに利用されるケースが
ほとんどです。関東近隣では非常に貴重なゴルフ場と云えるでしょう。


<ホウライCC>

<西那須野CC>